【小論】
国家と国歌
平泉金弥
1.歌われない「君が代」
世界には、各国の歴史によりさまざまな形態の国歌(それに替わる歌)が存在する。最も古いものは、オランダの国歌になった“Wihelmus van Nassouwe”であり、対スペイン戦争の際に生まれたゴイセン同盟の歌から発展したものであった。国歌は、このようにその国に属する国民の意識統一を図る必要から生まれ、多くは近代国家形成の過程で19世紀以降につくられた。
その歌詞の内容は、自国の自然風土を讃美し、国民の権利などを歌うもの、神の栄光と国の安泰を願って歌うもの、君主あるいは君主国家を讚えその栄光を歌うもの、君主制への反逆、あるいは革命を歌うもの、外敵に対する国民の抗争、歴史的情熱を歌うもの、なかには歌詞がないものさえある。その曲(旋律)は、自国の伝統音楽あるいは民俗音楽を利用するもの、西洋風の音楽、他の国の音楽を利用するものがある。
国歌は、通常憲法あるいは法律によって規定されており(ただわが国の国歌は法令で規定されてなく、「昔からあるから論」などによって「君が代」を国歌としている)、学校教育のなかで義務づけられたりしながら大多数の国民に歌われている。現在国歌は、歌を通じて国民間のつながりを強くしたり、帰属意識を高めるといった国内的機能と他の諸国に自国を紹介する際のシンボルとしてその機能を果たしている。
しかし、現在の日本では、「日常で国歌を歌ったり、聞いたりすることはめったにないにもかかわらず、相撲やサッカーの試合の際には大合唱しているのを聞いたりする」など、国歌を取り巻く状況は複雑である。その中で特に興味深いことは、若い世代の国歌離れである(自国の国歌斉唱の際に起立をする日米の高校生の割合は、日本25.6%に対し米97.2%である:『国旗・国歌に対する意識と態度の調査』日本青少年研究所)。日本の国歌である「君が代」は、なぜ、国民に愛されないのであろうか?また、なぜ、日本国民に楽しく自信をもって歌われないのであろうか?それには、いくつかの理由が考えられる。本稿はそのことについて若干考察する。
2.「君が代」の起源とその歴史
まず、国歌に対するイメージの悪さがその理由にあげられる。以下それを歴史的に考察する。 日本の国歌と言われる「君が代」の歌詞の原歌は、民謡として親しまれてきた『古今和歌集』の巻七「賀歌」の冒頭に「読人しらず」の歌として納められていて(もともと、君が代の「君」は、長寿を祝う敬愛する相手ならば誰でもよかった)それに曲が付けられ、「君が代」が「国歌」といわれるようになったのは明治に入ってからのことであった。
その経緯は、明治2年(1869年)にイギリスの公使館の護衛歩兵隊軍楽長として横浜にいたウィリアム・フェントンが、日本に国歌がないことを知り、軍楽を習いに来ていた鹿児島藩出身の江川吉次郎に、作曲してやろうと言ったのがきっかけである。そこで、.江川の同郷の薩摩藩砲兵隊長である大山巖に相談したところ、大山が、当時薩摩地方で祭礼や盆踊りの歌にも使われていた「君が代」を歌詞として選び、フェントンに作曲を依頼した。が、彼は全く日本語がわからず、歌詞と曲がかみ合っていなかったため、同じ鹿児島藩出身で同9年海軍々楽長となった中村祐康が、宮内省へ依頼した。その後平安以来の雅楽と欧米伝来の洋楽を身に付けた宮内省楽部の人により原譜が作られ、独墺から来日中の雇教師が少し手を加えて、現在の「君が代」がつくられたのであった。しかし、当時はあくまで軍隊における天皇礼式曲であり、国歌ではなかった。
それが国歌となったのは、同21年(1888年)表紙に菊花の御紋をつけ「大日本礼式JAPANISCHE HYMNE」と大書した「君が代」の総譜が米欧の条約国と国内の諸官庁に送付された時である。その後、同23年以降教育勅語と重なりながら、日清戦争を背景して、天皇への忠誠をもった人間を育てるために学校を強力な媒体として「君が代」をひろめ、いつの間にか大衆にもこれを国歌と思い込ませたのである。同24年から文部省が「祝日大祭日唱歌」を定めるために、当時著名な文学者や音楽学者などからなる委員会をつくりその協議のすえ、同33年に公布された『小学校令施行細則』の中に、学校儀式の際に「職員及児童『君が代』を合唱する」と定められ、それが終戦直後まで続いた。そしてそれは、第二次世界大戦の際も、国家統制を強めるために利用されたのである。
戦後、「君が代」は、スポーツの場と学校教育の場に現れることになるが、それらの議論の中心は、戦前の「君が代」の使われ方の後始末であった。
このように「君が代」は、戦前の軍国主義と重なり、国民の意識を統一するための統合装置として学校教育とともに利用されたために、また、第二次世界大戦およびそれに至る戦乱の中で、近隣アジア諸国民に対する日本のシンボルであったために、国内においても近隣諸国においても決してよいイメージがもたれる理由がないのである(1954年のアジアスポーツ大会ほか多くの国際的なスポーツ大会において日の丸・君が代が問題となった。現在、サッカーなどがそうであるが、いわゆる国際化やスポーツなどの国際親善試合などが盛んに行なわれるようなって、こちらの都合とは関係なく、国歌を歌わなければならない状況が多々見られるようになってきいるが、歌わないことを選択するか、別な歌を歌うことにするか、今後の課題である)。果たしてこのような歴史をもつ歌を自ら進んで公の場で歌おうとするものはいるのだろうか。特別な環境にいないかぎり「君が代」をあえて歌う理由など見つからない。
3.旋律と歌詞
二つめの理由は、その旋律ないし歌詞の問題性に関連している。
国民の音楽文化は、明治以降の西洋音楽教育の導入、1970年代以降のアメリカンロックの広がりにより、国歌がつくられた当時からすると良くも悪くもかなりの変容をとげていて、さらに朝鮮半島から伝わったとされる雅楽の教育ですらほとんど受けていない国民(特に若い世代)は、雅楽を主要な音楽要素に取り入れている「君が代」への免疫をもってなく、「君が代」は、NHKテレビの放送終了時に流れる曲を聞き続けないかぎり、共感しにくいものになっている。
また、その歌詞についても、「君が代」を強制、義務化しようとする文部省が公式解釈を示そうとも、詠人の心が定かではなく、教育界や歴史学者などから疑問の声があがっていたり、「君が代は千代に八千代にさざれ石の巖となりて苔のむすまで」という事象をいかなる意味に解すればよいのか、「君」が天皇でないとしても、天皇主権時代のおもかげをひきづるのではないだろうかなど議論は絶えなく、おさまる見通しはない。
「君が代」の旋律と歌詞は、このような理由から日本国民に受け入れられづらいものになっている。
4.日本における特殊な事情
三つめの理由は、「日本には大勢で歌う環境や歌いたいという意識をもつ人が以前よりまして少なくなっているからではないだろうか?」という疑問に関連している。
歌は、バラバラな人々のバラバラな気持ちを一瞬のうちにまとめあげて、全員をどこか遠くの何か抽象的なところへ軽々ともっていく力、つまり、人々をまとめあげる力がある。しかし、今日の日本では「君が代」に限らず、そういった歌の力がはたらく機会もそういった歌も存在しないように思える。数人が集まり、酒を飲みながら騒いでいるうちに一緒に歌を歌おう!といったことにはめったにならないし、歌を歌うにしても、せいぜい友達とコミュニケーションをとるためにカラオケボックスに行くぐらいである。
このような従来あった歌の力の解体は、資本主義の発達と個人主義の進んだ地域における人間のアトム化に関係するのではないかと考えられる。人間的つながりの希薄さから、以前コミュニケーション手段として機能していた「音楽」にも「音楽のアトム化(例:ウォークマンの普及)」としてアトム化現象があらわれたために、その力は多くの人をまとめあげるというより、人を世界から一人にさせる力の側面が強くなってきたのである。
民謡やわらべ歌などといった地域社会に根づいていた歌は伝承されなくなり、市場経済に乗った歌が、唯一、心をかよわせる歌になった。さらに、その好みも多様化の傾向にあり、世代間を越えて歌える歌はほとんどないというのが現状であろう。あるとしたならそれが「君が代」に代わるべき歌である。
5.おわりに
以上、国歌を歌わない理由をあげてきたが、それを一言でいうなら、「みんなで歌う環境がないうえに、『君が代』を歌っても気持ち良くなれない」と、まとめることができるのではないだろうか。
明治のはじめから戦後まで強制的に歌われてきた「君が代」は、戦後の学校教育のなかで一時期強制された。しかし、強制力のなくなった現在、また、歌うと不利益を被るかもしれない現在、「君が代」を歌わなくなったことは、自然な流れであったかもしれない。日本国民の心の中には、はじめから『コッカ』そのものが存在していなかったのではないだろうか。