個人のテロと国家の武力行使
テロをなくすには、それを規律するルールが確保されていなければならないのにそれが怪しい。テロに責任を負うのが個人なのか国家なのか一貫しない。国家とは区別されるイスラムの宗教団体(=個人)によるテロに問える責任は容疑者の個人責任であり、国家責任ではない。従って、容疑者が属する国家に経済制裁やミサイル攻撃を加えることにより国家責任を問うことはできないハズである。ルクソールについては、エジプトの国家責任は問われなかった。
英米によると、1988年のパンナム機爆破事件の容疑者はリビアの諜報部員と主張されているので、リビアの国家責任を問うのは論理的には一貫している。それが国家機関による行為であれば、テロという個人責任の問題というより武力行使という国家責任の問題になる。しかるに、ナイロビやダルエスサラームにおけるテロの容疑者がスーダンやアフガニスタンの国家機関であるとは主張されていないので、これらの国家へのミサイル攻撃は許されないハズだ。これらはむしろ個人責任の問題である。
国際法には、自国民である私人による外国人の身体・財産への被害事件の発生を事前に防止または事後に責任者を処罰するため「相当な注意」を払うべき国家責任原則がある。リマ日本大使館事件で、襲撃計画を察知していたのに「相当な注意」を払って事前防止しなかった警察幹部を処分したフジモリの行為は、事後処罰によりペルーの国家責任を解除した。しかるに、スーダンやアフガニスタンが、ナイロビやダルエスサラームでのテロ計画を事前予防するため「相当な注意」を払わなかったとは申立てられていない。また米は事後処罰の可能性をまたずにミサイル攻撃した。
日本が米の行為を歓迎しなかったのは、それが、私人による慰安婦行為や強制連行を「相当な注意」を払って予防・処罰しなかった不作為に対する国家責任を思い出させるからだろうか。(M)